母との思い出まとめてみると

今週のお題「会いたい人」


母へ

いつもありがとう

育ててくれてありがとう

振り返れば自由にさせてくれた

どんな時も守ってくれた

母の日に感謝をのせて贈ります〜


私の母は田舎で生まれた。四国の愛媛県だ。
母の家は坂の上にあった。坂の途中と家の側で牛を飼っていた。
田舎に帰ったとき、牛の匂いがしたのを覚えている。
家の側には畑もあった。
家は大きな家で、大きな漬物の樽があった。家の下には財宝が眠っていると言っていた。

母は子供の頃、家のことをよく手伝っていた。
お使いをしたり、漬物をつけたり、田植えをしたという話は耳にタコができるほど聞いた。
よって野良仕事は今でも嫌いであると言っている。
きっとやりすぎたのだろうと思う。
大型の休みがくるとかならず家族総出で畑や田んぼの作業をするので休みは嫌であったと。
しかし、今では家で花や野菜を育てて愛でている。
きっと昔の収穫して食べる、たくさん咲いた花を飾る、おすそ分けするという気持ちは変わらないのだろう。

母は父母について、私にとっては祖父祖母のことをよく話してくれた。
祖父は母が20歳のときに他界した。その祖父のことをとても尊敬していたようであった。
祖父は田舎を便利に活性化する仕事をしていたとよく聞いた。とても聡明であったとも聞いた。
母が琴の師範をとり、人に教えることができる状態になったとき、ほっとしたように他界したらい。
きっと母思いの祖父だったのだろうと思う。

私の母は次女である。兄弟は6人で女男それぞれ3人、その中で次女として育った。
母が子供の頃の話をする時、次女だから大変だったと言っていた。
長女は何事も慎重に扱われるし、親は初めてなので大切に扱う。
末っ子は甘やかされるし、上を見ているのでちゃっかりしている。
次女である母はたくさんに挟まれるて、放置気味だったと。そして、寂しかったと話していた。
いつも兄弟の思い出話は辛そうに話していたのを覚えている。

母は一人で遊ぶことが多かった。
きっと姉と妹が一緒に遊んでいて、あるいは世話をしていて、母は一歩離れていたのではないかと想像できる。
母は想像遊びが好きで、人形や架空の話を作っては遊んでいた。
話を書いたり、本を読むのが好きなのはそこが原点であろう。
兄弟の位置については、よい悪いそれぞれの言い分があるだろう。
しかし、一つしかポジションを取れないので、なかなか別の位置の気持ちはわかりづらい。
そんな次女の位置の思いに悩んでいたから母は、次女である私を大切にケアしていた。

真ん中である私は放っていてもなんとかなる子だったらしいが、放置することなく世話をしてくれた。
それでも不平等がでてくるのが、世の中。そんな時は大きなルールを決めてくれた。
習い事は運動系1つ、文化系1つをやってよい。(後に、運動文化系こだわらず2つまでOKになった。)
本は本当にほしいものしか買わない、それ以外は図書館で読む。
大学は国公立なら県外も可。私立なら家から通えるところ。
このルールの元4人兄弟である私達を育ててくれた。ルールがあるというだけで、私はなんとなく嬉しかった。
例えば男だけ大学に行かせるとか、女は◯◯など不平等なものはなかった。男女平等、兄弟平等であった。
もちろん選択することは自分の判断でやるので、違った人生になるのは当たり前なのだが。


母の話をしていると自分の話に脱線している。
話を戻すと、母は自分の子供を平等に育てた。
母は本を読むのが好きである。母は話を書くのが好きであった。
新聞の投稿欄に投稿してはよく掲載されていた。新聞を読むのも好きであった。
小柄な体にエネルギーを秘めていた。
悪口は嫌いであった。最悪、悪口は家で言えと言っていた。
健康マニアであった。
料理は苦手と言っていたが、毎日料理を欠かしたことはなかった。
自分のできないことを子供に率先してやらしてくれた。スキー、水泳、サーフィン、自転車、もろもろ。

母はおとなしい性格にみえてまったく違った。
ぺらぺら話さないが、ここぞという時に、するどい意見を的確に言った。
また、将来を考えて自分を磨いていた。
二十歳で琴の師範をとったことも、その現れだと思う。
私が小さいときに、琴や三味線を大事に大事に保管し、弾いていたのを覚えている。
少し琴を教えてもらったことも思い出。

私を含む子供には贅沢はさせないが、勉学は惜しみなくさせた。
やりたいといったことは否定しなかった。
お金もそこに重点をおいて使うと宣言していた。
決して裕福とは言えなかったけれど、使ったお金の額を後々計算してみると莫大にかかっている。
目が飛び出るような支出である。
衣服や食事は質素に、そして勉強や手に職がつくようなことにお金を投入すると断言していた。
しかし、子供はその思いに反して、旅行がしたい、服が欲しい、あれがほしい、これがほしいと暴走していたが。


母は人に流されるのが嫌いであったが、今の最先端を走っていた。
まだコンピューターが浸透していない頃、コンピューターの本を読んでみたり、時代の先を読んでいたように思う。
便利になればなるほど生きづらくなるかもしれないと言っていた。
実際、母の子供の頃より便利にはなっているが、今が生きやすいかどうか
生きづらくなっているように感じる。
生きづらさにもいろいろあるが、便利がすべていいという訳でもない。


そんな母への思いは私の中にしっかり生きている。
ふとした場面で母の言葉を思い出す。
その一つが「努力をしなければ人は駄目になる」という言葉だ。
できるといわれる人は勝手にできるようになっているわけではないと。
よく考えると分かるのだが、自分だけは特別だと思いたい、思いがちである。
そうなりかけたとき、その言葉を思い出すようにしている。
何歳になっても、死ぬまでゴールは来ない。


そしてもう一つ

「人と比べる前に過去の自分と比べろ」ということ。
人は近くの人と比べたがる。
そして、自分の方が優れていると思いたい。
しかし、過去の自分を超えなければならい、この過去の自分は永遠に存在する。
ずっと前向きに生きる。
立ち止まりはしても、前を向かなければならない。
これらの言葉は高校の時、就職の時、仕事をしている時、そして今、何度も何度も思い出したし、思い出す。
きっと今後も思い出すだろう。


私は母のいろいろな思いでできてきている。

そう言うと、こんな子になるはずじゃなかったと言われそうだが、母の影響がとても強い。

これからも母のことを思い出そう。

母へ、ありがとう。