父の描いた私の好きな絵

玄関にヌード。

そう、私の実家は玄関にヌードの絵が飾ってあった。

父の作品だ。

小学生の時、嫌で別の絵にしてって頼んだりした。

これはアートだからと聞かない父。

アートかぁ〜、いや、アートって何?

時には、代えてくれてもいいてよ〜と生返事をすることもあったが。

そんな絵が、家庭訪問時には、風景画に代えられていたり。

やっぱり気にしているんじゃない〜

普段は気に入った絵を飾っていたはず。

どうしても見られたくない人が来られるときは別の絵にしていたのだろう

それとも、母が代えていたのかな

そんな父の絵の思い出。

今は懐かしい。

お気に入りの一枚ってなかなか生み出せない

だから最高の作品、お気に入りの作品を飾っていたのだと思う


子供のときは週末によく美術館へ連れていってくれた。

それから、公園にスケッチにいく。

父が絵を描いているそばで、駆け回って遊んでいたことを覚えている

あれこれ描き足されていくスケッチブック。

そしてクロッキーブック。

そんな父の作品の中で何点かすごく好きなものがある。

それは赤を貴重にした絵。

油絵だ。

サイズは何号だろう。

A4サイズを少し大きくしたくらい。

貝や風車、ブリキのおもちゃなど、ガラクタが無造作に積まれている。

赤ばかりで少しくすんだ絵。

なのに

その赤に目が行く。

赤の深さというか、赤の色味の多さに虜になる。

一言で赤と言えない絵。

橙とも赤とも朱色とも茜とも言えない色味に惹きつけられた。

その絵は玄関にいつも飾られていて、ぼおぉーとしていても目線に入り込んでくる。

少し霞んだような色味の油絵は玄関の一員となり、いつもそこにあった。

夢の中の世界のようでもあった絵。

楽しい日々も、つらい日々も、暑い日も、あの日も、この日も、吸収していった絵。

そんな絵が大好きだった。

その絵を母も気に入っていた。

その絵はその座を譲ることなく、ずっと玄関に。

何千枚と生み出されていく絵の中で忘れられない1枚。

深い一枚。

きっと今も飾っているだろう。

少し色あせているかもしれない。

今見たら、どう感じるのだろうか。




次の大好きな作品は、小さなブローチ。

そのブローチは割れた茶碗のかけらを丸くして作られていた。

素焼きの段階で割れたものだろう

だから捨てられるものをパーツにしている。

素焼きのかけらは茶碗の丸みが残り、その丸みをうまく人の顔に見立てている。

だからなんとなくやわらかい。

色味は白地に青の釉薬でライン。

青色の細い線で描かれた顔がでしゃばりすぎず、沈みすぎず

シャガールの絵のような、ある日の比叡山にかかる雲のような色味のブローチ。

それをつけている母、あるいはネクタイのピンにしている父はいつも声をかけられていた。

そう、そのブローチ、ピンはどこで買ったのですかと。

社交辞令かとも思ったが、いつも声をかけていただくのは

気品のある落ち着いた方、美術を好きな方、圧倒的におしゃれな方だ。

何がいいのわからない自分。

いつも不思議だったが、今ならその良さがなんとなくわかる。

そう、あのブローチは形がいびつだけど、それがいい。

そして、なんとも言えない表情もいい。

そして、白の中の深い色味。

ふたつとないブローチ。

世界にひとつだけのブローチ。

ほんの数センチに命が吹き込まれた作品。

割れた茶碗のかけらを丸く削って焼いて命を吹き込む。

そんなブローチが好きだった。

そういう物を作りたい。

そういう人でありたい。




そして最後に、今も手元にある絵手紙。

そう、父からの絵手紙。

父からの絵手紙は最高の贈り物になった。

一人暮らしをしていた宮崎県に贈ってくれた。

実家に戻ってくる時、捨てそうになっていた不届き者な私。

そんな絵葉書。

ヒメジオンに蝶。

ヒメジオンの花の花びら一枚一枚がいい。

蝶も絵の中で生きている。

そうだ子供の頃に、父は公園でよくスケッチしていた。

その一枚を再現したような絵手紙。

汚れた黒のパレットに面相筆。

描いている姿が思い浮かぶ一枚だ。

他にも何枚か絵手紙がある。

その時々で作風が違う。

その変化も楽しい。

今はたまに見返して、幸せに浸っている。

また、元気がなくなれば眺めたい。



もっと、もっと好きなものがある。

また、書こうと思う。


抹茶茶碗に、ぶどうの模様が入った花瓶

一緒に作ったナスの皿。

私の星座を描いてくれた皿。

もう、数えられないほど思い出がある。


師走も元気に乗り越えていきましょう〜。