人生会議していません。
あの小籔さんのポスターのお陰で、人生会議をしなくてはと思った次第です。
母親はもう40年近く、ぽっくりいきたいと言っています。
私が物心ついた頃からでしょうか、小学生の頃からでしょうか、言っていることは今も変わっていないです。
そのぽっくりの意味は?
それを問うのが人生会議なのでしょう。
どうぽっくり死にたいのか?
考えたことなかったです。
寝込みたくないのだろうと簡単に想像していただけでした。
ただ、母は子供の頃に自分の祖母、私の曾祖母の介護を長くして、とてもしんどかったと言っていました。
そのことがぽっくり死にたいということにつながるのかもしれないです。
これはこちらの想像なので、何故ぽっくりなのかは分かりません。
自分で死に方を選択する時代になっているとすれば、時代遅れな家族です。
それはそれで一つの形として良いとは思うのですが。
父に至っては死について語らないです。
そんな話がでても微笑むのみです。
娘の読みとすれば、なるようにしかならないと思っていそうです。
さらに今を一生懸命楽しく生きたいと思っていそうです。
死ぬことより生きることだろうと。
子供である私はどう死んでいきたいのか。
そんな話を親としたことはないように思います。
親より先に死ぬのは親不孝であると言われたことはあります。
親より早く死なないと思い込んでいますが、そんなことわからないですね。
父側の祖父は98歳、祖母は88歳、母側の祖父は40代、祖母は86歳で亡くなっています。
人はいつ亡くなるかわかりません。
理想は親の後に死にたいが、親より早く死ぬ場合、誰に何を伝えたいのか。
伝いたいことはあるのか、将又、伝えたいことなどないのかもしれない。
死ぬ時に自分がどうありたいか。
生きている間にあれこれ考えて伝えていなければ、思いが伝わらないまま死んでしまうのだろう。
一方で、普段から死ぬことに限らず、何がしたいのか、何がほしいのか、何が嫌なのか、何が嬉しいかを話しておけばいいのではないかと思う。
そんな風通しのいい人間関係が築けていれば、悩むことはないのではないかと思う。
死ぬことは生きていることの延長にある。
生きている最後が死ぬことで、どう生きたいとつながっているのかもしれない。
どう生きてきたかを観察、共有することで、その人の気持ちに近づく。
死ぬ時に、気持ちを汲める関係でいる人が側にいてほしい。
あるいは死ぬ時はそっと一人で死んで、その後、悲しんでくれる人がいてほしい。
これが私が今行きついた、人生会議で話したい内容、自分の死への思いである。
治療のことなどなってみないと想像できない。
どう死にたいのか、どう生きたいか。
むずかしい。
思っていたようにならないのが人生。
思っていても気持ちが変わるのが人生。
延命をしたくないからの延命したい。
自宅でゆっくりしたいからの、病院の方が迅速に対応できる。
そういうことが話せる大切な人がいてほしい。
人生会議のポスターありがとう、いろいろ考えるきっかけになった。
時には炎上して広まる情報が有難くもある。